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外国地名の呼び方

20年ぐらい前、朝のニュースで「これからは外国の地名は現地の発音に近い呼び方をします」と報道されたことがあります。

いよいよ中南米の国々の呼び方も現地の発音に近くなるのかと期待したら、ビルマをミャンマー、ボルネオをブルネイと言うようになった、などが大きな変更点で、相変わらずメキシコだのキューバだのハイチだのと、中南米およびエスパーニャについては英語のフィルターを通しての呼び方をしていて、今に至るも変わっていません。

数か月前、テレビのクイズ番組で、現在は中学や高校の教科書ではリンカーンとは記載せずリンカンと記載している旨の紹介がありました。

現地の発音に近い呼び方では、リンカーンよりもリンカンなのだそうな。

現地の発音に近い呼び方をするなら、イギリスとかオランダのようにカタカナ語ではあっても立派な日本語と化している地名は別として、エスパーニャ語圏のラテンアメリカおよびエスパーニャの地名・人名も、現地の発音に近い呼び方にしてもらいたいものです。

モーツァルトの弦楽五重奏曲第1番の第3楽章および全曲をアップしました

かやくりひMIDIデータ館のモーツァルト、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲第1番の第3楽章および全曲をアップしました。

マンフレッド交響曲

先日の「N響アワー」で、アシュケナージがチァイコフスキーの1番から6番までの交響曲全曲を指揮した、との紹介がありました。

第6番を作る前に作りながら破棄し、その第1楽章をピアノ協奏曲第3番に書き直したものは別としても、チャイコフスキーにはもう1曲「マンフレッド交響曲」Op.58があるのだから「全曲を指揮した」とは言わないでほしい、ぜひアシュケナージに「マンフレッド」も振ってもらいたい、と思います。

私はこの曲を知って以来、チャイコフスキーはベルリオーズから影響を受けたに違いないと思っていました。

ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」はバイロンの作品を元にした「交響曲」という名のヴィオラ協奏曲ですし、「幻想交響曲」の第2楽章は交響曲には珍しいワルツでできています。チャイコフスキーのマンフレッドもバイロンの作品に基く作品で、主人公は「ハロルド」「マンフレッド」と名前こそ違え、中味はどちらがとうやら区別が付かないほど似ている(らしい。私はそもそもバイロンの作品を読んだことがありません)。また、チャイコフスキーは第5と第6の交響曲にはワルツを使っています。第6のワルツは3拍子ではなく5拍子ですが。

ところで、全音楽譜は最近オイレンブルクのスコアを日本語訳の解説付きで出版し続けています。その1冊として最近「マンフレッド交響曲」も出版になりました。

このスコアを購入して解説を読んだところ、この曲はチャイコフスキーがベルリオーズに直接影響されて書いたものではなく、ベルリオーズがロシアに指揮をしに来た折、音楽評論家のスターソフがバラキレフにベルリオーズの作品にあやかった曲を書くように提案したことから始まったとのこと。バラキレフは自分では書かずにチャイコフスキーに書くことを勧めて、この曲が誕生したとのことです。

私の想像は当たったわけではないようですが、この曲がベルリオーズとは大いに関連があることは間違いありませんし、「マンフレッド」を書くにあたってチャイコフスキーがベルリオーズの作品に接して、交響曲にワルツを取り入れる着想を得たことはありうることだと思います。

レールモントフの本

古本屋街を歩いていたらロシア語の原語の本を店頭販売している店があって、トルストイの『復活』やらソルジェニツィンの『イヴァン・デニーソヴィチの一日』やらが並んでいました。

その中に手書きの日本語で「現代の英雄」と帯をした本があり、手に取って扉を見るとレールモントフの詩集と「現代の英雄」という小説で構成された本でした。

レールモントフは唯一「孤帆は白む」という詩を私は知っている(『現代の英雄』は岩波文庫になっていることで題名だけは知っているものの、読んだことはありません)ロシアの作家で、このブログの「かやくりひ」は、この詩のイメージも色濃く反映しています。

数か月前に露英・英露の豆辞典を買った勢いもあって、無謀にもこの本を買ってきました。

レールモントフは19世紀ロシアの作家だというぐらいしか知らなかったのですが、1841年、決闘で27歳の若さで命を失ったと知ってびっくり。大作家プーシキンも決闘で若くして死んでいますが、37歳でしたから、10歳も若かったのです。

購入してから「孤帆」の「ПАЛС」を頼りに探してみましたが、詩は長篇詩ばかりのようで見当たりません。

長いのは到底無理ですので、詩のうちの短いものを選んで、そのうち1つでも2つでもここで訳せればいいな、と思います。

モーツァルトのヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲第1番、第2楽章をアップしました

かやくりひMIDIデータ館のモーツァルト二重奏曲第1番に第2楽章を追加しました。

第1楽章は昨年の11月にアップしたので、半年ぶりに第2楽章を追加したことになります。

この曲の入力を続行する予定ですので、第3楽章(2つの二重奏曲は、ともに3楽章制です)をアップすろのが半年先、ということにはしないつもりです。

再び漢字の話題

「音楽とは音を楽しむこと」とは巷でよく耳にする言葉ですが、「楽」をガクと読む時はそれ自体が音楽の意味であって、楽しいの意味の場合、ラクと読みます。「音が楽しい」だとすれば「オンガク」ではなく「オンラク」でしょう。

それに、漢語は動詞+目的語の順に来るようにできているので、もし「音を楽しむ」の意味にしたいなら「楽音」と書いて「ラクオン」と読まないと意味が通じません。

動詞+目的語の順になっていない例の1つに「券売機」があって、この語を作った人はきっと「販売機」の「販」を「券」に置き換えただけなのでしょうが、「券が売る機械」になってしまって、券が何を売るのぢゃ、と言いたくもなります。

「盲導犬」の場合、おそらく「導盲犬」にすると「獰猛犬」と間違われるのであえて文法を無視したのだろうと想像します。

盲導犬より歴史の新しい「聴導犬」は「盲導犬」に引っ張られて作った言葉のように思っていたので、「導聴犬」にすべきではないか、と最近まで思っていました。

ところが最近になって、これは「聴こえを導く犬」というより「聴き導く犬」の意味かもしれないと思えるようになりました。

モーツァルトの弦楽五重奏曲第1番全曲をアップしました

かやくりひMIDIデータ館のモーツァルト弦楽五重奏曲第1番の、ようやく全曲つないだデータをアップすることができました。

データそのものは1月にできていたのですが、アップロードできずにいたのです。

これまでWeb上でログインしてFTP転送していました。今年に入って、この曲の第4楽章までアップロードしたころ、ログインはできるものの、FTP転送しようとすると「接続がリセットされました」のエラーメッセージが表示され、そこでストップしていました。

FFFTPでFTP転送を何度か試したのですが、「パス名が存在しません」のエラーメッセージ。

「MIDIデータ館」のサイトはWeb上でFTP転送することが基本になっていて、FTP転送ソフトで転送している人でも、定期的にログインしておかないと会員権が消失してしまいます(無料会員の場合)。

私も前述の事情があったため、気がつくと1か月ログインしていなかったようです。「あと10日のうちにログインしないとデータは消失します」のメールが届いたので、あわてて前述の事情をメールしました。

FFFTPでの転送ができなかったのは、結局、パス名が間違っていたことが判明。ようやくモーツァルトについては全曲の通しをアップできることになった次第です。

Web上でのFTP転送ができない原因は判らずじまいです。

「村の鍛冶屋」

母はおよそ音楽とは無縁なのだけれど、文部省唱歌の類だけは好きで、NHKの「みんなの童謡」は好んで見ています。

先日の「村の鍛冶屋」の放送のあと、「文部省唱歌を集めた本、売ってないかね」と言うので、ネット検索をしてなつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・歌謡 というサイトから約200曲あまりの歌詞をもってきてOpenOffice.orgWriterでA4縦書き2段組にし、A4の無地のルーズリーフに裏表プリント、30穴のA4バインダーに綴じて渡しました。

ところで母がなつかしがった「村の鍛冶屋」は、戦後の音楽教育で歌わされた「あるじは名高い働き者よ」ではなく「あるじは名高きいっこく老爺」と、戦前の歌詞が放送でもこのサイトのものでも紹介されています。

歌詞の3番目は次のとおり。

刀はうたねど、大鎌・小鎌、
馬鍬に作鍬、鋤よ、鉈よ。
平和のうち物、休まずうちて、
日毎に戦う、懶惰の敵と。

これは旧約聖書の言葉とよく似ているとは、誰の言葉だったろう?

「イザヤ書」第2章「終末の平和」の第4節を参照のこと。

文部省唱歌というと軍国主義教育の見本のようなものばかりと思ってしまいがちですが、この歌は明らかに第1次世界大戦後の軍縮ムードを反映しているように思います。

しかも2つを並べてみると、確かに「村の鍛冶屋」の作者はイザヤ書を読んでその影響を歌詞に反映させたと思っても間違いではないと思いたくなります。

NHKの解説では「大正元年」とあったような……。1912年といえば、日本は石川啄木のいう「時代閉塞」の頃ではないか。

たぶん今週も放送があるだろうから、解説を注意して見てみようと思います。

『日本語はなぜ美しいのか』

黒川伊保子著『日本語はなぜ美しいのか』 (集英社新書)を読みました。

「日本語は世界に珍しい母音を主体とした言語」とあるけど、あの四声の言語、中国語は母音が主体ではないのだろうか?

ヨーロッパの言語でも、イタリア語、フランス語は開音節が多くを占めている言語で、こういう言語だって母音主体ではないのだろうか?

などなど、疑問点はすごぶる多い。どうも著者の独断と思われる箇所が多い気がする。

が。

言語形成期の少なくとも3歳まで、それ以降でも12歳までは外国語を習わせるなど、もってのほか、との著者の主張は私も大賛成。

大勢の人に読んでもらいたい本に巡り合ったとの思いを強める1冊です。

聞いて判るということ

ある障害者団体の集会で情報保障した時のことです。

しめくくりで集会アピールの朗読があったのですが、視覚障害者が点訳したものを朗読しました。

おそらく主催者も「視覚障害者だって、点字を使えばアピール文を朗読できるんだよ」との思いをこめて、あえて視覚障害者に朗読を依頼した、という「わざとらしさ」ではなく、たまたま朗読をお願いした人が視覚障害者だった、ということなのだろうと思います。

それはいいのですが、途中で朗読者がつっかえるのです。墨字の表現では「益」の箇所、それも1箇所ではなく、2~3箇所、「益」が出てくる箇所で。「益」は、これ1字で「えき」と読ませる単語です。日本語の日常会話で出てくる「えき」といえば、真っ先に思い浮かぶのは「駅」でしょうから、朗読者がつっかえるのは無理もないことだと思います。

このアピール文の作成にあたっては、視覚障害者は関わらなかったのだろうな、と思ってしまいました。

この例は、たまたま点字を読んだ人がつっかえたから気づいたことですが、同じようなことを日頃の情報保障の中で気づかないうちにやってしまっていないだろうかと思わされました。